逍遥は明治17年[1884] この地(旧真砂町18番地に住み)、「小説真髄」(明治18年〜19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張しました。 その理論書「当世書生気質」は、それを具体化したものです。 門下生の嵯峨の舎御室は、「逍遥宅(春逎舎)は東京第一の炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想しています。 逍遥が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常盤会」という寄宿舎になりました。 俳人正岡子規は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿しました。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいました。 (坪内逍遥旧居・常盤会跡 案内板より)